2012年11月13日火曜日

株主とか経営者とか

とある文脈で、「株式会社は株主のものだ。そして経営者と株主がイコールであれば株式会社は経営者のものとなる」と言う話しが挙がり、それに対して様々な意見が飛び交っていました。

注1:これをリアルタイムで見た方の一部には何のことだかわかり、そうでない方には文脈を正しく理解できない可能性がありますが、考えた末、こういう書き方を選びました。

注2:従って、本来きちんと引用すべき発言の主が見えない部分があります。発言された方にとって、意図と異なる部分があれば修正することとしたいと思います。

当ポストについては、結論などは無く、ただただ書き連ねているのでご容赦下さい。


さて、私もクライアントと話していて、この【株主】という表現は非常に気を使います。誰のことかわからないと言われるんです。
基本的に、コンサルティングの仕事をする中で、「株主」と言った場合は、議決権の有無にも関わらず、全ての株主を指すと説明します。そうでなければ主要株主/少数株主、もしくは大株主、場合によっては親会社などということもあります。「貴社の機関投資家」という変な表現になるケースもあるかもしれません。


最初の文脈にある「株式会社は株主のものだ。そして経営者と株主がイコールであれば株式会社は経営者のものとなる」が、間違いなく上記の通り、全ての株主だった場合、『もの』という表現が適切かはさておき、『もの』を『公器』と置き換えればさすがにOKではないかと思います。

では、最初の文脈の文章において【株主】という表現が、主要株主だった場合どうでしょうか。
ちょっとマズイ文脈になってしまうのではないかと思います。


ただ、株主価値を達成するための手段の多くを委ねられている経営者が、ある程度の裁量で(≠私的に)意思決定を重ねていくことは認められているので、その程度が度を越すと、なんだか会社が私的に運用されていると映るケースもあるかと思います。

このケースで最近、思いつくのは、ソフトバンクが再生可能エネルギー事業に進出すると言い出した件を思い出します。
あれが経営者(この場合、孫さんと言っても過言ではないかと思います)による、度を越した裁量による経営だったとは言いません。きちんと株主総会で決議されているからです。
(事業自体の将来の不透明さも忘れられているかのように株価とは連動していないようですし)

しかし、経営者が「全ての株主」の意思(見えないし問うのも難しい)に萎縮してしまい、何か重大な機会を逸してしまうことも避けるべきだと思っています。
(こういった機会損失は、評価不能なので株主はもちろん誰も気が付かないこともある。)

この萎縮は、サラリーマン経営者には往々にして起きてしまう、残念な現象だと思っています。

いわゆる起業家精神が重要だと言われるところの最も重要なところは、この萎縮を避けることだと、個人的には感じています。

日本の伝説的な(いや、伝説ですかね)経営者、本田宗一郎氏、松下幸之助氏、安藤百福氏、井深大氏、盛田昭夫氏はもちろん、現役の稲盛和夫氏などは、お手本と言わざるを得ません。

この方々に次ぐ、日本の経営者でこの萎縮が無い方としては、柳井正氏、孫正義氏、三木谷浩史氏、新浪剛史氏などが挙げられるでしょうか。
(経営者としての全般的な評価ではなく、あくまで「全ての株主の意思」というものに萎縮しない経営者という評価です)


経営者としては、『とりあえず』萎縮せずに、きちんとしたプロセスを踏んで、自らの選択を株主に問うことで、経営を円滑に進めていけばいいものと思います。
その選択の可否を決めるのは、株主総会という公正、公平な場に持ち込まれれば良いのですから。(主要株主の意見を汲み取りがちなのは、ここでの意思決定を予想してしまうから)
株主がどういう決定をするか?よりも、自らがどんな選択をしているか?を明らかに見せることがじゅうようなのだと思います。


気を遣いながらそのポジションに居るよりも、やりたいようにやれる方がよくありませんか?

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