2013年2月18日月曜日

女性が(?)働くということについて

この約1週間の間に、『働く』ということに関して、「男性が~」とか、「女性を~」とか、性別で括った議論を複数回、目にして、ちょっと溜まったものがあるので吐き出したいので、吐き出します。


いきなり個人的な結論を申し上げますが、私個人の考えとしては
働く環境を考える上で、性別をもって議論するのはナンセンス
というものがあります。


順を追って説明したいと思います。

いや、こういう議論自体が個人的にはどうでも良いんです。社会がどうあろうと、自分の考えと、家族としての考えがあれば良いと思っています。つまり、『あくまで個人の問題』だという認識が強いです。

加えて、基本的には生きていく上で<働かざる者食うべからず>な訳ですから、そこに『男女という括った二元論的な議論も気に入らない』んです。


『あくまで個人の問題』というところと、『男女という括った二元論的な議論も気に入らない』というところが合わさって初めて上記の意見となります。


『あくまで個人の問題』であるという意識が強くあるのは、母も、母方の祖母も働いています(いました)。母方の祖母に至っては、90歳にして、企業のお手伝いをしました。これはこれで驚きです。
そういったこともあってか、私の妻は働いているというか、自ら事業を行なっています。


『男女という括った二元論的な議論も気に入らない』というのは、繰り返しになりますが、生きていく上で働かなければいけないのは、男女差はありません。
その前提の上で、結婚をした場合に、どうするかは夫婦で決めればいい事です。
※参考:やはり、専業主婦の方が幸せなのか?「比較優位」理論から見た夫婦の分業(日経ビジネスオンライン)
つまり、性別で括る事は、全く意味が無いことだと言っています。
個人/家庭で議論することを社会全体の議論のように祭り上げるのは余計なお世話だと思っています。

注意していただきたいのは、過去の経緯として性差があったことを否定しているのではなく、今後を考える上で男女差を意識する必要性を感じないと言っています。
今後の事を考える為に、以前のポストを一つ引用しておきます。
「女性管理職を増やすにはどうしたら良いか?」という命題について

ここでは全体が変化したと実感するには時間が掛かるということを述べさせていただいていますので、併せてご笑覧ください。

つまり、相手がどんな人であろうと、正当に、合理的に判断し、公正な環境で仕事をすればいいだけなんです。それ以外の事を、社会として考えるというのは、個々人にとっては余計なお世話だと思います。他人の事を考える余裕が有るのなら、自分の事をやって下さい。


ただ、以上述べさせて頂いた意見は、ごく個人的な意見であり、社会として公正かつ公平な機会、評価、報酬にしていく努力を怠ってはいけない(今はそうなっていない)と理解しています。





※公正かつ公平な機会、評価、報酬が受けられる社会のイメージ

  • ある仕事に就く上で、機会に性差を含めた差別がないこと(特定の性別が期待される仕事があってはいけないという意味ではないです)
  • 就いている仕事を遂行する上で、与えられる環境や機会や制約が平等であること
  • 同じパフォーマンスであれば、(限りなく)同一の評価を得られること
  • 同じ仕事で、同じ評価を受けた場合、報酬に差が無いこと

ということから、仕事上、男女の意識をほとんどしないです。
とある女性がチームに居た時に、別の方から「女性に厳しい」という意見をもらったことがありますが、そのような発言をした人に、「今の仕事の仕方に問題があるのなら緩くやってもいいけど、そうすると評価も下げるし、報酬も相応に下がるけどいいの?」と言いました。私のチームに居た女性にとっては、その意見は余計なお世話なわけです。そういうことって多いとおもいます。


この辺りは個別に議論したい方もいらっしゃるかと思いますがこの辺で。